東京地方裁判所 昭和29年(レ)222号 判決 1956年5月19日
控訴人 川田倉次郎
被控訴人 大野鹿太郎
主文
本件控訴はこれを棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人より控訴人に対する江戸川簡易裁判所昭和二十四年(ユ)第一三八号家屋明渡調停停事件に基く調停調書の執行力ある正本による強制執行はこれを許さない。
訴訟費用は一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決を求め、被控訴代理人は「控訴棄却」の判決を求めた。当事者双方の事実上の陳述は、原判決事実摘示と同一であるからここにそれを引用する。
<立証省略>
理由
被控訴人より控訴人に対する債務名義として江戸川簡易裁判所昭和二十四年(ユ)第一三八号家屋明渡調停事件につき当事者間に昭和二十五年二月二十三日成立した調停調書が存在すること、右調書によれば(一)被控訴人は控訴人に対し本件家屋を期限の定めなく賃料一ケ月金四百円毎月末日払の約で引続き賃貸すること、(二)控訴人において右賃料の支払を怠りその額三ケ月分に達したときは、被控訴人は本件賃貸借契約を解除し、控訴人は自己の費用を以つて賃借家屋を原状に回復した上被控訴人に明渡すべき旨の記載があることにつき当事者間に争いがない。よつて以下控訴人の異議の主張について判断する。
控訴人は第一に、右調停調書に基く賃貸借契約は消滅している。すなわち、昭和二十六年十一月控訴人が本件家屋でパチンコ遊戯場を開店するに当り控訴人、被控訴人間の本件家屋に関する従前の賃貸借契約は合意解除され、控訴人の長男訴外川田健吉があらためて被控訴人から本件家屋を賃借した旨主張するので、この点について判断するのに、成立に争いのない乙第二号証、原審証人川田健吉の証言、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果を綜合すれば(一)昭和二十六年十一月二十八日、当時パチンコ遊戯場を本件家屋で経営しようと計画していた控訴人とこれに承諾を与えた被控訴人との間において、遊戯場を始めるには本件家屋の店舗部分を改造しなければならず、改造すればこれを後に復旧するに当り費用のかゝること及び遊戯場を開いた場合には本件家屋の火炎保険の掛金が割高になること等を理由として、本件家屋の賃料を一ケ月につき金三千円に値上げする旨の合意ができた事実(二)右パチンコ営業については家主たる被控訴人の同意書がなければ営業許可が得られないとこから、被控訴人に対し控訴人より右承諾書に押印することを求めた際、被控訴人は控訴人側の特殊事情から営業名義人を同人の長男訴外川田健吉とすることについては承認を与えたが、控訴人主張のごとく本件家屋の賃借人を右パチンコ営業の開始を機に右訴外人に切換える旨の意思表示をしたことはなく、したがつて前記調停調書に基く賃貸借契約がそのまま維持せられた事実を認めることができ、この点に関する控訴人本人の原審及び当審における本人尋問の結果及び証人川田健吉の証言部分は信用せず、他に右認定に反する証拠は存在しない。よつて控訴人の右主張は採用できない。
次に控訴人は仮りに前記調停調書に表示された賃貸借契約が右に主張した日時に消滅しなかつたとしても、前段に主張した通り、パチンコ営業開始を機会に本件家屋の賃料を一ケ月金三千円に値上げした際、被控訴人は値上の条件として本件家屋の破損部分を直ちに修繕することを承諾しながら、その義務を履行しないため控訴人は止むなく昭和二十七年四月一日以来本件賃料の支払方法を停止したのであつて、控訴人には本件調停調書の記載に該当する義務違反はない旨主張するので、この点について判断するのに、控訴人主張の前記約定による修繕義務の存在については、被控訴人本人の当審及び原審における供述及び原審証人川田健吉の証言中にこれを裏付ける部分があるが、たやすく信用できず他にこれを肯認しうる証拠は存在しない。そして成立に争いのない乙第一号証、原審における証人川田健吉の証言、原審及び当審における控訴人及び被控訴人の各本人尋問の結果を綜合すれば、前段に控訴人の主張するとおり、控訴人が本件家屋の賃料を昭和二十七年四月分以降引続き支払わないので、被控訴人は翌二十八年十月十四日本件賃貸借契約解除の通知を発し、右の通知は翌十五日控訴人に到達して右の賃貸借契約は適法に解除された事実を認定することが出来、右の認定を左右するに足る証拠はない。してみれば控訴人は、前示調停条項に基づき本件家屋を被控訴人に明渡すべき義務あるものというべく、この点においても控訴人の主張は失当たるを免れない。
控訴人は、さらに前段に主張した約定による修繕義務が仮りに認められないとしても、被控訴人は本件家屋の貸主として当然修繕義務を負うに拘らず、これを尽くさず、本件家屋は荒れるにまかされ、雨天の日には、二階の部屋は雨漏が激くて布団も敷けず、台所、便所等も雨具を着けなければ用が足せず、漏水のため食糧、靴等も損壊され、パチンコ遊戯場にも漏れたりするため螢光燈を点燈することも出来ず、これがために右事業も不振に陥り昭和二十八年秋には休業するに至つた。このような惨状であるに拘らず、又控訴人の再三再四の請求にも拘らず、被控訴人は賃貸人としての修繕義務を怠るので止むなく控訴人は前段主張のとおり本件家屋の賃料の支払を停止した旨主張するが、証人大野政子、同谷本ハナヱの当審における証言、同神崎栄太郎の原審における証言並びに被控訴人本人の当審及び原審における本人尋問の結果を綜合すれば、昭和二十六年春から同二十六年秋までの間において本件家屋中台所のトタン葺の箇所に僅かな雨漏があつたがそれも簡単な応急の措置で十分防止しうるものであつたほか、他の部分に雨漏等破損箇所は存在しなかつたことが認められ、右の認定に反する証人川田健吉の原審における証言、同前田勝治の当審における証言、控訴人本人の当審及び原審における本人尋問の結果は信用を措かず、他に前示認定に反する証拠は存しない。一体双務契約における同時履行の抗弁権は、双務契約における衡平の観念、或は信義則に基いて認められるものであるから、仮りに抽象的には双務契約上の相対応する債権債務関係の間にあつても、具体的事情の上で右抗弁権の行使が衡平を欠き、信義則に反することが明白な場合には、これが行使は許されず、或は権利の濫用として排除されるに至る道理である。本件につきこれを見るのに前段認定のとおり僅かな雨漏に対する修繕義務の懈怠に対して賃料の支払を停止するが如き行為は、明らかに行き過ぎであつて、法の認める同時履行の抗弁権の範囲を逸脱すること明白であるから、控訴人の主張はこの点においても失当である。
最後に控訴人は、仮りに右に主張した控訴人の主張がすべて認められないとしても、昭和二十六年十一月末、控訴人が当時月額金四百円であつた本件家屋の賃料を月額金三千円に値上げすることに同意したのは、被控訴人の強迫による意思表示であるからこれを取消す。すなわち、当時パチンコ遊戯場を本件家屋で開場しようと計画した控訴人は、営業資金を他人から融資を受けていた上、パチンコ機械購入のため金十万円の手附金を支払つており、早く営業を開始しなければ右手附金を失うにいたる苦境にあつた。一方本件家屋で開業するには家主たる被控訴人の承諾書を得なければ営業の許可を得られないという状態であつたが、被控訴人はこの機会に乗じて賃料を月額金三千円に値上しようとたくらみ、右値上に同意しなければパチンコ営業に対する承諾書を与えないというため、控訴人は止むなく右賃料の値上に同意したのである。よつて右の取消により本件家屋の賃料は、昭和二十六年十二月に遡つて月額金四百円となつた旨主張するが、右はこれのみでは意味のない主張であるから判断の限りでない。
以上のとおり、控訴人の主張は、すべて理由がなく、控訴の請求を棄却した原判決は正当であり、これが取消を求める控訴人の本件控訴もまた理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八十九条、同法第九十五条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 磯崎良誉 石田実 兼子徹夫)